日記の効用

最近ここには書いてないけど、日記を始めた。リアルな手書きのと、ブログだけどプライベートなのと。それは認知心理学でそういうのが役立つという根拠が示されていたからだ。今のところ続いていて、しかも心によろしい。治療的なものかもしれんが、やっていこうと思う。メンタルイマイチ調子よくなかったし。
日記に書くこともそうないというか、日記だからこっちでもいいんだけど、とりあえず自分だけのなんでも書く感情日記ということなので、さすがにそれはここには書かない。●●氏ねとか正直にそういうのを書くことこそが大事なようだ。王様の耳は〜とかいうアレですね。

ちょっとだけ落ち着いて時間が出来たのでいろいろ考えたが、下手な考え休むに似たり。下手な内省身を滅ぼすということで、適度に痴呆化すべきかもしれないと思った。スキルアップ教とか今更ハマる歳でもないし。キャリアも考えすぎてもしょうがない。計画通りには行かないものというのはもはや定石。ということで、合目的的過ぎないようにいくかーというように思えたのだった。あと理論こねくり回されても強度ない言説多すぎる。これあらたに思った。越境どうのとか言ってるより、オッサンオバサン関西人おばちゃん、異なる世界の住人と語らって知恵もらうほうがよっぽど越境で包摂だってことだ。世代ミングルしてみたほうがイノベーションだのなんだのがうまくいくんじゃねえかなと思った。上はパターナルになりすぎず、下は恐れて老害とかいいすぎずみたいな。異なる得意分野同士をエクスチェンジすればイインジャネーノと。若いやつはIT教えて、オッサンは、、なんかあるだろ、バブルの遊び方はゴメンだけど。たこつぼ島宇宙とかいってるけどほんとにそれが問題視されてるかどうかって産業マクロの観点とかじゃなくて、個人的実存からだろという事実がある。だったらまちおこしでもなんでもやればいいじゃないのと。

目の前の人も大切にできないでなにが越境だと自分に再帰的代名詞ですが思いましたとさ。

正念場というかなんというか

不得手な世界への対峙。片手間にしか対処しなかったからこその局面がやってくるのだが、常に完璧な準備など存在しない以上、当座のやり方で対処するしかない。ビジネス、いや人生とはそのようなものなのであろう。苦手なことに問題なくやりすごすこととしたいが、なにかひとつは、チャレンジできればとは思う。あいまいに濁すけど。

それはそれとして、不確定な社会に対する認識として、社会構成的なものという側面がおおいに在るなあと最近接している学問なり書籍から思うことだった。これまた曖昧に書くけど。マネジメントの不可能性とか、ざっくり言えば科学的なものへの批判というか、そういうのが面白くもあるが、なんか現実ビジネスにおいてはそう悠長なこともいえず、むーとか思う。

まあ代理店のコンサル部門も儲からないということは、つまりそういう不確実性を不確実性として扱うオシゴトは、実入りが少ないということなのかしらね。欧米系のコンサルティングはやっぱり処方箋を処方されるからこそわかりやすいお支払いとなるのだろうなとやっぱり安易な結論。

とりわけ今日は意味のない日記でした。

教条的なこととしては出口さんの書いてた、「深く考えられないのはまだインプットが足りないから。ある段階を超えたらアウトプットに転じるよ。」というのが、なるほどと思ったくらいでした。だとすると、結構インプットしててもつながらないのは、インプットをインプットたらしめるための意識付けが足りないのかなあ。あとは目標が定まらず集中せず拡散しているからなのかなあとも思う。思索を深めることは難しい。

「思考軸」をつくれ-あの人が「瞬時の判断」を誤らない理由

「思考軸」をつくれ-あの人が「瞬時の判断」を誤らない理由

心が動くとはどういうことか

タイトルは思いつき。なにも心の動かし方もわかるようにはならんし、自分自身が悩んでいるところでもある。

いまだにダイアリーだが、はてなブログに移行する気はまだないながらに、ちょっとずつ気になる人もはてブロで書いているようになった。そのサービスがもつ雰囲気とかそこに集うブランドとか大事だなとやっぱり思う。最近広告脳衰退してるけどそういう感性の根っこはは抜けないものだ。

関係ないまくらを経てつらつら書こうとしているのは、なかなかやるべき課題に取り組めないからなのだが、書く行為はカタルシスがあるとあらためて思う。だから久しぶりに日記をつらつらと書いてみようと思ったわけだ。

さてそろそろ心が動く話を書こうかと思う。最近は心が死んでいる。仕事のパフォーマンスはそれほど悪くない。だが、ストレスが増えてきた。その証拠に口内炎だ。むかしはこれがひどくなったらヘルペスになった。どうやら俺のストレスは粘膜に兆候が出るらしい。

仕事はそれなりに楽しい。仕事の意義も感じている。やりがいというやつもないではない。だが、良くないストレスを感じているのではないかという認識だ。なんだろう?いまの仮説では人の好み、好き嫌いというやつだ。上司、同僚、よくある話。人間関係の問題は日本人の悩みNo.1だ。ご多分に漏れず漏れもそうだというだけ。

尊敬がないわけではない。むしろ苦手とか思っている対象は出来る、というか組織文化の中核だからパフォーマンスしていて認めている。(はい上からですね)ただ、そこになかなかチューニングがあわない。どうやら自分は思ったほど器用ではないらしい。この認識はなかなか持てなかったがどうやらそうだ。愛想はいいが、深く付き合うようになると、人を選ぶタチのようだ。

自分の尺度は人の好き嫌いにどうやら多くあるようだ。ライフネットの岩瀬さんではないが、いままでも好きな人と仕事をすることで成長実感もカタルシスもパフォーマンスもあがったように思う。上司に恵まれた時というのは特にそうだった。出来る上司、なんか俺が助けてやんないといけないなーと思えた上司、いずれも共通していたのは言いたいことが言えた状態だった時だと思う。良かった人だけ。S上司、B部長、Sーちゃん、Ronさん、そんでなにより恩師ゆかわさ様、とにかくキータームで人に恵まれている。俺は運がいい。この才能は年末ジャンボ宝くじ2等くらいだと思う。

今は文句言えない。議論出来ない。自制してしまう。自分が一皮むける必要もあるのだろうが、それが根本的な不一致なのかはまだ判断が下せない。いずれにせよ、職場にいだく包摂感はほぼない。べつに会社が全てでないし、転職も多いからそういう気持ちではない。だがそこではたらいている以上は、あいまいな不全感が続くことは幸せではないので、なんらか行動療法的に改善したいものだ。今は対処療法的に、時短で対処している。(ただ残業も早い出社もしていないというだけだが)

なかなか心が動く話題に入らなかったが、やっと入りますか。最近は、このブログを読むことがひそかな楽しみである。
犬だって言いたいことがあるのだ。

広告時代の縁でお会いできた方のブログだ。今は特にお会いする機会はないし、実際オシゴトをご一緒出来たことはないのだが、なんだか、お会いした時に、そのキャリアを伺って、この方のキャリアは面白いなーと思っていた。それがその会社のキャリアパスなのか、その人自身のユニークなものなのかわからなかったが、どうやら後者のようだとブログを拝読してわかってきた。

専門的なことなんで職種の遍歴は細かくは書かないが、結構ユニークなキャリアの振り方をされてきたと思っていた。だが、その背後には、当然努力があったんだなあと思ったわけで。どうでもいいが、仲良くしていただいてた、俺がいまでもスゲーと思っているヤンキーあんちゃんから紹介してもらったから、やっぱり好きな人と深くしっかりと付き合うのが人生を豊穣にするこつだ。広告業界とは距離ができてしまったけど、その会社はああいいなあこの人達と働いてみたいなと思えた数少ないところだった。会社のある場所含めて。会社からあるかないと飯屋ないけど。

ついつい脱線する。

ブログ読んで元気もらう。そんで、自分も心が動いて、なんだか、やれることあるんじゃないかなあと、読んだあと数分思う。仕事の合間にぱっと滋養強壮剤的に読ませて頂いているので、申し訳ないが、ウルトラマンレベルの時間しか直接的な刺激は受けていない。

だが、じわっときている。俺なりのユニークさを発揮できる機会をつくっていきたいなと思ってきている。なにがどうの、という計画性よりも先に、なんか感覚的なものがうずいてきている。なんらか、ご一緒できる相談でもしようかな、と実はうっすら思っている。のだ。ペンギンからイヌにラブコールしようかと思うこのごろである。

会社を辞めて後悔したことはあまりないのだけど、そのヤンキーあんちゃんとこいくのすごい好きだったし、呼び出されて新地でメシ食うの、めっちゃ楽しかったなーと思い出して、いま初めてちょっとさみしいきもちにはなった。

どうしてももたなかったら、また会いに行こう。

気まぐれコンセプト クロニクル

気まぐれコンセプト クロニクル

ブクログを活用してみようかの

ブクログ - web本棚サービス
書評とかまとめを書くにはブログ、というのがいままでだったけど、いっそ本に特化してブクログでもいいのかと思ったりした。ダイアリーだと引用記法も出来てそれは結構好きなのだが。たまに書いていたんだけど、あまりちゃんと使っていなかった。
id:mtakanoも結構まめに書いてるなと思っていた。mtakanoの本棚 (mtakano) - ブクログ
ひとこと感想というよりは、きちんと読書感想文として型を決めて残したい。どうもよみっぱになっててそれがずっと上澄みみたいで嫌だった。そうでない読書に仕方もあるのだろうけど、今は精読が必要。仕事でそうなった。

なんか同じテーマをえんえんかいてるみたいでそれもどうなんだという感じですが。

諦めと覚悟という問題

またひとつ歳を取り、いよいよ夢見がちな時期もトランジットせねばという頃合いになった。今更という感じもありましょうが、広告業界などというお祭り業界にあってはそういうこともなく、幼稚性もまた職能、という感じすらあったので、ようやくもう少し地道な志向性ということが否が応にも意識される頃合いになってきた。

ちょっと関連ありそうな記事を見つけた。
【エッセイ】物語の落とし穴 - Ylab 東京大学 山内研究室

Y世代(現在23歳から37歳)の標語「好きなことをしよう (follow your passion)」の落とし穴:好きになったり楽しさを感じられるまでには時間がかかり、仕事を選ぶ基準としては機能しない

今の自分が物語に出てくる人のようでなくても、あせることなく目の前にある現実の中からよりよい選択を積み重ねていけば、振り返ったときにそこに物語ができているかもしれません。(中略)物語から学びながら、物語にしばられない。ーそういう生き方は意外に難しいのかもしれません。

とても合点がいくところがあった。自分自身が今日、キャリア面談的なものを通して指摘されたことに関連していた。世代論に慎重になりつつも、世代よりは年代論なのかもしれないと感じた。若すぎず、とはいえまだまだシニアでもないこの年代としては、どのレベルで当事者意識を持てば良いのか、スタビライズしづらいという実感がある。

この問題ばかり書いているからまたかという意識なんだが、移り気になって、学びというか修練を積み重ねられないという問題がある。隣の芝は青く見える。可視化され、比較対象が増える。一方で、自分らしさ的なアンカリングもいつのまにやら植え付けられている。過剰情報アノミー状態だ。自己決定、選択する力、という近代個人に求められつつも、決して一般的でもないアビリティが必要とされている。課題、やるべきことをを自ら設定して積み上げる、その妥当性を周りに示していくプレゼン?力。終わりがない闘いのように思えることがある。

自分の人生を生きる、ということなのだろう。
眼の前にある現実、自分の人生に現れた諸問題に向きあって、そのなかで自らの履歴を積み重ねること。人生はすべからくそういうものだとは思うが、物語、夢とよんでもいいが、どうしてもそういった仮想に自らを仮託してしまう。

夢は生きる原動力だが、それだけでは、現実を生きることは出来ない。夢想と現実。アンビバレントな両者を持ち続けることが必要なんだろうか。

なにが自己効力感を産み、妥当性を持つのか。近しい他者との融和、それだけか?世界ニュースのような大きな物語にコミットすることで、崇高ななにかと一体化するかのような感覚になって、それが肯定されるのか。

強度を持った生き方がしたい。それは消して派手なものとは限らないはずだ。使命感。それをどこに持てるのか。持つべきなのか。メタ的な思考ではいけないのだろうけど、考えてしまう。そこには、他者性、社会性めいたものが必須なんだろう。

自らの活動に柱をたてるような、指針を、もちたい。
俺だけのものでいい。そうだと実感したい。
いつも忘れてしまうから、明文化し、見返すようにすべきなんだろうと思う。

なにかを、自らで、選び取らなくてはいけない。
終わりのない、自己探求ゲーム。
そもそも、人生というのは、そういうものかな。

人生を真に生きることが出来る時代は、生きるのが難しい。近代人の病、ここに極まれり、であるな。

あまりに1年の成長が感じられず不全感だらけだったから、たまには日記にしてみた。日記は大切だな。そろそろ、そうでないアウトプットも始めようと思う。アイデアは以前より膨らんでいる。

効用ある高揚感でなんとか一日の締めに。
Mac miniと格闘してなんとか16GBメモリも認識してもらえた。風車でがちだがおそらくBluetooth干渉だろう。Huluも英語字幕で見られるし、AppleTV外してもいいかも、というようになった。
今日はいままでにない不全感あったから一日の最後になんとかリベンジ出来た感じ。こういう成功体験?がやはり人間には大事であるな(・∀・)

ロジカルシンキングとかはらわた煮えくりかえらんとか

ロジカルシンキングとか苦手だ。むしろ軽蔑なんだが、やらねばと思った。誰のためにやるかと言ったら、自分のためにやるのだ。自分がきちんと相手に達意するようにだ。

そのためには、なにをいいたいのかの主題を自分のなかで据えておくことだ。

そのあとは、順序立てだ。ようは構造だ。

などとばか丁寧に考えた。
むかつく相手から文章に関してdisメールが来てここ最近ないくらいにはらわた煮えくりかえらん感じだったのだが、そう思うことにした。

気が向いたら続きを書く。

個人的にはスキルの先のなにを伝えるべきかという意思をはっきりとさせておかねばという気づきが大きかった。

どうでもいい備忘録〜アメリカンカルチャー篇〜

どうでもいい備忘録だが忘れないウチにかいておく。
急に仕事中にエアロの”Livin' on the Edge”がアタマの中に流れてきたのであった。そんなに今はエアロも聞かないし趣味ではないが。

アメリカンロックというのは高揚するなと思った。自分の育ちがそうだからなのだが、中学自分はハードロックのリスナーにあけくれたのであった。ヘビメタHM系はたまにいったけど、基本はHR路線である。これは確定した線引きはないが、ギターエフェクト的にはディストーションレベルとか、ボーカルのシャウト度とか、ギターのシェイプとか、おしゃれ度とかBURRN(スペル違いそう)度とかがあるのでなんとなく雰囲気でわかる。エアロはHRである。和製ではB'zもである。

まあなにがいいたいかというと、アメリカンロックの浪速的な?要素がニヒリズムに退行しうる強度をもっているかもしれないなとかふと思ったので書いた。その観点から、この秋に公開するトムのクソそうな映画を見に行きたいのであった。

アメロック史はちょっと振り返ってみたい。ブリットとは違う路線で、ヤンキーカルチャーの系譜として。(最近、広告うちわでヤンキーとjapanカルチャーつうか消費問題として議論の予兆であることもある)