諦めと覚悟という問題

またひとつ歳を取り、いよいよ夢見がちな時期もトランジットせねばという頃合いになった。今更という感じもありましょうが、広告業界などというお祭り業界にあってはそういうこともなく、幼稚性もまた職能、という感じすらあったので、ようやくもう少し地道な志向性ということが否が応にも意識される頃合いになってきた。

ちょっと関連ありそうな記事を見つけた。
【エッセイ】物語の落とし穴 - Ylab 東京大学 山内研究室

Y世代(現在23歳から37歳)の標語「好きなことをしよう (follow your passion)」の落とし穴:好きになったり楽しさを感じられるまでには時間がかかり、仕事を選ぶ基準としては機能しない

今の自分が物語に出てくる人のようでなくても、あせることなく目の前にある現実の中からよりよい選択を積み重ねていけば、振り返ったときにそこに物語ができているかもしれません。(中略)物語から学びながら、物語にしばられない。ーそういう生き方は意外に難しいのかもしれません。

とても合点がいくところがあった。自分自身が今日、キャリア面談的なものを通して指摘されたことに関連していた。世代論に慎重になりつつも、世代よりは年代論なのかもしれないと感じた。若すぎず、とはいえまだまだシニアでもないこの年代としては、どのレベルで当事者意識を持てば良いのか、スタビライズしづらいという実感がある。

この問題ばかり書いているからまたかという意識なんだが、移り気になって、学びというか修練を積み重ねられないという問題がある。隣の芝は青く見える。可視化され、比較対象が増える。一方で、自分らしさ的なアンカリングもいつのまにやら植え付けられている。過剰情報アノミー状態だ。自己決定、選択する力、という近代個人に求められつつも、決して一般的でもないアビリティが必要とされている。課題、やるべきことをを自ら設定して積み上げる、その妥当性を周りに示していくプレゼン?力。終わりがない闘いのように思えることがある。

自分の人生を生きる、ということなのだろう。
眼の前にある現実、自分の人生に現れた諸問題に向きあって、そのなかで自らの履歴を積み重ねること。人生はすべからくそういうものだとは思うが、物語、夢とよんでもいいが、どうしてもそういった仮想に自らを仮託してしまう。

夢は生きる原動力だが、それだけでは、現実を生きることは出来ない。夢想と現実。アンビバレントな両者を持ち続けることが必要なんだろうか。

なにが自己効力感を産み、妥当性を持つのか。近しい他者との融和、それだけか?世界ニュースのような大きな物語にコミットすることで、崇高ななにかと一体化するかのような感覚になって、それが肯定されるのか。

強度を持った生き方がしたい。それは消して派手なものとは限らないはずだ。使命感。それをどこに持てるのか。持つべきなのか。メタ的な思考ではいけないのだろうけど、考えてしまう。そこには、他者性、社会性めいたものが必須なんだろう。

自らの活動に柱をたてるような、指針を、もちたい。
俺だけのものでいい。そうだと実感したい。
いつも忘れてしまうから、明文化し、見返すようにすべきなんだろうと思う。

なにかを、自らで、選び取らなくてはいけない。
終わりのない、自己探求ゲーム。
そもそも、人生というのは、そういうものかな。

人生を真に生きることが出来る時代は、生きるのが難しい。近代人の病、ここに極まれり、であるな。

あまりに1年の成長が感じられず不全感だらけだったから、たまには日記にしてみた。日記は大切だな。そろそろ、そうでないアウトプットも始めようと思う。アイデアは以前より膨らんでいる。

効用ある高揚感でなんとか一日の締めに。
Mac miniと格闘してなんとか16GBメモリも認識してもらえた。風車でがちだがおそらくBluetooth干渉だろう。Huluも英語字幕で見られるし、AppleTV外してもいいかも、というようになった。
今日はいままでにない不全感あったから一日の最後になんとかリベンジ出来た感じ。こういう成功体験?がやはり人間には大事であるな(・∀・)