知性のための準備

知性とまでいうと仰々しいが、ある程度の準備というのが学び直すためには必要だったのだと最近思う。いま、けっこうあらためての学び行為に取り組んでいる。大学行ったり本毎日読むようにしたり勉強会やったりだ。必ずしも楽しい〜満点ではなくて、わからないことに気づいたり焦り?みたいな気持ちもまだまだあり、そこまでスカっとしている状態ではないのだが、まあそれでも学びリバイブモードきてる。
思うに、学生時代に続けて進学したいとは思っていなかったし(そのときははやく社会に出たかった。フリーライドしてる感が嫌だったタイプ)20代の中盤に大学院いきたいなあ(これは逃避)と思ったりしてたときがあったりして今、その時よりは踏み出しているのは、心とか知性の準備ができているかという点があるように思う。で、その準備もまだ高まりきっていないのだと思っている。来年正式に進学しようと思ってたけど、たぶん控えるモードになってる。やれる範囲で続けて、準備が整ったら協力を得られるような体制ですすみたいと思うようになってきた。通うとやっぱり職場にも迷惑かかるからねえ。まだ1/3人前以下ですからねえ。
知性にも準備が必要なのだ。学びたいと思った時がその時みたいな言葉も真実のひとつだとは思うが、だからといって、ようし俺もハーバード受けるぜ〜とか海外留学で人生変えたるーみたいなのは、その下準備があってのものであるのだ。下準備ばっかりしててもしょうがないのだが、基礎的な力とあとは姿勢を固めるために半年から1年のスクリーニングはあって然るべきなのかもしれませんね。あいまい。
方向性はなんとなく定まったしある程度絞れてはいるのだが、入ってからが大事ですし、もっと言えば通い終わった後になんらかの道とつながってなければアラサーの大人の学びとしてはいかんのかなとも思う。合目的すぎるわけではないが、投資とリターンとかそういうことばっかりいってるのも寒いが、趣味にしては大きな行為だとも思うわけで進学は。
思い返すと、それなりに本は学生時代から読んではいたものの、学問をするための流儀や基礎体力はなかったと思う。だから進学しても目的意識もなかっただろうし、学ぶ態度を身につけるのに良くて修士2年でついてりゃ良かった程度だろう。モラトリアムの修士というのも否定はしないし俺も今思い返せばそれでも良かったのかもしれないなあとは思うけど、そうしてりゃプラハの大使邸で眠れる経験も出来たのだけど(ホントねこれ)残念ながら卒業して働くとそういう決断をしたわけだ。プラハだけは後悔している。人生で数少ないがこれはまさに後悔である。
絶対的に学べなかっただろうと思うことのひとつに、学生時代はもっと頭悪かったことがある。自意識のバランスが今以上に悪かった。はてなのバイトみたいなちょう優秀なバイトしかしらんけど、今の学生を見てるとすげえ情緒は安定してるし、流されてなくて、まあ反対に言えば企業からしたら洗脳出来ねえめんどうなやつらで、それっていってみれば批判的態度があって学究の土台は俺の当時なんかよりあってそこはいいなあと思ってた。とくに社会科学に関しては認識の客観性(ヴェーバーもじった)が全くなかったので、今以上に向いていなかっただろうと思う。まあ違った学問もあろうけど。
逆に言えばどうしたら学生時代からそういう社会とか人同士の相互関係に動機づけられるのか、社会にでる前にはあまりにもそういうものはなかったので、ずっと勉学をしてきた教授とかと接するとびっくらするわけだ。文学みたいな人文科学はもっと自意識とかそっちに興味が寄ってしまいますからな。
大人の学びとは何か、みたいな話はまさに今日ある場所で切実にしたわけなんだが、教授になるわけでも、そんなん言い過ぎでも研究員とかそういうものにでもなるわけではないのだとしたら、あえて大学に行き直すのってなんなのかね。高度専門職業人ってのがあってそういうための専門職大学院ってのもそりゃあるんだろうし紋切りでそういう合目的なことじゃないって言うことも出来るんだけど、中途半端になって終わるよりはライフワークの一環で学び続けるって思えないとあまり意味ないのかもなって思ってきてるこのごろです。
今日、ある程度真面目じゃない??たまにはと思ってまっつぐ書いてみたからひらつかさん効果出てきたのかもしれないですよ。((まあしょせんは日記です(・o・)))