ひさしぶりにお題に答える。「今年中にやっておきたいこと」

今週のお題「今年中にやっておきたいこと」ということがお題ということで久しぶりにかいてみよう。

といいつつ、あまりない。節目として今年一杯、という感じではないのであった。
抽象的に言えば、「文学」ということをあらためて考えてみたいこのごろである。ここ最近、急に浮上してきた。


文学。ほとんどのビジネスマンに全く無為なものとして思われている。気休めとか、女子供(って蔑称だよね)が読むものとか思われて、その上澄みでそこそこ偉い経済学者がストーリーが大事だよとか来たもんだ。ストーリー=文学というわけではないが。

ビジネス理論だってすぐに役立たないけどMBAとかでは必須だし、仕事で使えて役立ちました!みたいな人もいる。俺はあまりそういうシーンはないけど、それでも企画書を書くときにAIDMAとかフレームワークは便利でつかったりしたし。学問、理論が役立たないというわけではないというのはまあそれなりに妥当性もって言われている。理論から学ぶのは難しいが…

そこへきて文学。ぶんがくぶ出身の俺としては擁護するどころか、ネタにしかしていない。へへへ、どうすか?俺、ぶんがくぶとか入っちゃって大学時代は遊びまくったっす、みたいな感じ、とまではいわないけど、まじめに授業にでたとは言いがたかった。勉強、なのか知らないが本ばかり読んでいた。そのなかに、文学も多かった。


今は全く読まなくなった。なんだか、ハマったら逃避しそうで怖い気持ちがずっとあって、春樹新刊ですというときくらいしか読んでいなかった。それも、ざーっと流し読んで、なんだ1Q84ってブームだけど、ハードボイルドワンダーランドのような凄さがないよ、とかって解釈した。だからといって、ビジネス書をバリバリ読めばいっきに仕事が出来るようになるというわけではないのにね、と最近やっと思う次第だけど。逃避としてのビジネス書読書を相当にやったから。そんでやり続けているから。

ビジネス書を読むと、元気が出る。まるで抗生物質だと思う。経験値溜まったように思ったり、気づきなるものがあったように思ったり、スライムレベルでも倒していけばいつかはLevel99、というような気持ちにもなる。でも、そうでもない。

長期的には、だんだんと死に至るという感覚を覚えるときもある。なにかを殺して、上書きをしようとしている気持ちがしている。自分の教育、洗脳、弱い自分の忘却だ。

ここに疑問がわいてきた。適応が大事、適応するには今までの自分を上書きしていくこと、と、大リーグにいた長谷川の本を読んだ時に強く思って、原理原則のように思ってきたんだけど、ほんとうにそうなのだろうかと。


「文学」と言っていいのかまだ全くわからないけど、コトバによって動かされる、エネルギーを持つ感覚が文学に接していたころにあったと思う。懐古かもしれないけど。せっかくなんで、12月をメドにそのあたりを見極めたいものだと思う。

とか思ってたら、在る筋からもらったゲンロンエトセトラのインタビューに、文学は危機に際しての思考なのだ、とあってなるほどと合点がいった。そして、コミュニケーションの観点から「文学」が実利的に必要とされる局面がありそうだとあった。誰もが弱みは見せなかったり、感受性がビジネスどっぷりでとらえられなかったりであるけれど、こういった「文学」に代表されるなにかが、必要なのかもしれない。

とにかく、最近思うのは、みんな目に見えるものしか、証明出来る、と共通理解されそうなものしか価値をおかない(おけない)ってことなんだろうと思う。わけがわからない、説明不能、なものしか頼れない。みんなはどうかしらないが、自分が最近、動物的な知識欲(これはいいことでなくて、イメージ的にはヒロポンを注入し続けているイメージだ)で読書していたが、読書のかたちを、もう少しかたちを変えなくてはならない気がしている。それこそ、自らの危機かもしれん。自分の分、というものも鑑みて禁忌としていた、「文学」的な方面も試していこうと思う。


…なんか、ここに書く言葉は、どこかでみたよね、と尊敬するひらつかさんから言われたことがある。文学ってそんな感じだよね、ということを言われて、トンデモナイ、俺、なんちゃって文学だから文学なんて言われると狂ったモンスターみたいな文学野郎がそばにいた学部だったから申し訳ない、と思ってたんだけど。それこそひらつかさんが先輩だったし。

あんな読ませる文章を書いてみたいものだなあと、どんなビジネス書読んでも思わないけど、思ってるんですよ、と。

文学部がなくなる日―誰も書かなかった大学の「いま」 (主婦の友新書)

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