ワーク・ライフ・インテグレーションと第3の活動ということ

最近の不全感の正体がだいたいつかめた。仕事は好きだが、コミットメントしきることに躊躇がある。梯子外しの恐怖がロスジェネの心性としてある。家庭と職場の往復運動、それだけでいいのか問題。

一方で、ワーク・ライフ・バランスはごもっともだけどクソな面もある。仕事は仕事と割りきって、家庭を充実させましょうねーというお話し。

仕事で育まれる人間性ということもかなりある。ゆとりにはないかもしれないブラックワーカー耐性かもしれないが、仕事で人が磨かれる面は多分にある。

花田先生はWLBならぬワーク・ライフ・インテグレーションということを提唱し、モデルとして「職師」という言葉を使っているが、そこにヒントが有るように思う。だが、はっきりとしたイメージがつかない。ブラックワーカーと≒なのかとか…仕事にもっと深くコミットせよ!というだけの話なのであれば、それってモーレツ・イズ・ビューティフルというむかしむかしの再帰にしかならない。

今更流行らないサードプレイスという言葉があるが、それが仕事を含めた日常と連関し、豊穣なる日常生活を送ること、それにつながる恒常的な活動を創りだしていきたいということを思う。職場とは別であることが重要だ。梯子を外されてもセーフティーネットとして機能するもの。むしろリスクを負えることで日常を挑むようにしていくためのもの。古くは宮台ワードとしては多元的所属という言い方でもあり、最近ではホームベースと言われていること。あるいは二足のわらじということなのかもしれないが。コミュニティづくりと言えばそうかもしれないが、「選択縁」であることが大事だ。

それも、他人の答えにのっかることではなくて、じぶんでつくること、それを求めたい気持ちが膨らんできている。協力があるから出来る、ということはあるかもしれないし、経験を積むから出来ることというのもあるが、オーナーシップこそがわざわざ第3の活動としてやる意義なのではないかと思っているからだ。

そして、僻み目であることを認めつつも、やったもんの人に擦り寄ってなんとなくやってる感がある人を見るとイタイ気持ちがあるからでもある。最近では学びのアプローチからのワークショップ的なそういうブームもあるし、NPOまちづくり的なコミュニティデザインブームもあるが、なんだかどちらもキレイ系ムーブメント的な感覚がある。学びの方はIQ高い系のニオイ、NPO系は良きことをやっていて大文字のNGがつかない潔癖さを感じたりする。ヤバさ、とか、反骨とかカウンターカルチャーのニオイと強度を求めたいが、反抗するものもない現代ということであらうか。

(多分に学びの仕事している自己否定の文章になっているが正直ベースで書いておかないと最近つぶれそうな思いがすることもあるので書く)

余談ながらインターネット上での縁ということも考慮したいことではある。「情報縁」と宮田加久子先生は言う。ネット上の社会関係資本というものもある、ということははてなを通して実感したことでもある。ただし、デジタルネイティブは現時点では適応しがたい人のある種の逃避の場でもあるだろう。リア充つながりとしてのmixiは流行り始めの頃はきちんと縁として機能していたのではないかと思っている。少なくとも今のリア充じまんの連絡網としてのFBにはない語りの場があったと思える。

やまもといちろう×楠正憲「ネット業界“ソーシャルの次”を本気で考える」(前編)~楽しさだけを突き詰めても先はない - エンジニアtype

とか思っていたら隊長も関連したことを話している記事がアップされていた本日であった。
(FBメモから転載)