身につけるとか学びとは

定期的に疑問がわき上がる。何を持って成果とか、身についたとか学んだとか言えるのかという達成基準とか自己内納得感みたいなのである。営業ってある種の良さもあり、数値的達成基準があり、ラインを超えた〜超えられなかったオワタ的な感じが良くも悪くもはっきりしているものだった。
しかるに、そうでないことのほうが多い藤原和博的に言えば「納得解」の時代において、それはどう定められるのか。
尺度、と昔CMで山本高史はコピーで書いた。たしかトヨタカローラかなんかで。その尺度を定める力というか、ニーパー的正しいものとそうでないものを識別する力を我に、ということであるのかもしれない。
カギは外化ではないかと思う。これも外化だが。別に外化≒疎外というマルクス的な意味でなくて教育心理学的な意味で。
外化(がいか) | 経験デザイン研究所
対話のための持ち出し物とでも言うべきか。若者のように議論はしたくない。ただ対話がしたいだけだ。寄るべき打ち立てた理論もなければ信じられる絶対性もない人間にはそれが望ましい。
先日、ユング心理学の大家から発達障害発達障害化する社会という話を聞いた。理論的適応が効かない圧倒的な現実があるという。「サイコロジカル・マインドの欠如」(衣笠)という言葉もあるらしい。人間性ってなんだろうと思う。
脱線したが、外化をもうちょっとエクセレントなものにしたいとか思ったのでログメモした。