青学宮台講義の終盤を迎えて所感

久しぶりの日記である。酔いに任せて好き勝手書こうかと久しぶりに思った次第だ。明日休みとったし。id:contractioさんにも経過観察タグもらってたんで、報告も多少義務かと。

10年越しでの宮台センセ - 体系立たない学びの場〜My sweet Andragogy〜(・o・)のその後、という感じだ。4月からとっていた宮台センセ(@miyadai)の青学講義ももうすぐ終わり。とにかくこのタイミングで受講出来たことは大いなる喜びであり、糧となると思う。まあこんなことは宮台チルドレンなので話半分でいいんだけど、今またそもそも論であるところの社会学を捉え直すことは、自己の職務とか人生を相対化出来て非常に良かった。気づき、ってやつだ。

俺自身は、まだ決めきれていないながらに、やっぱり根本的にはなんのための仕事とか人生とか社会か、という視点はないといけないだろうということは意を新たにした。お決まりの疎外論ではあるが、人間疎外の果てにグローバル化(笑)に抗おうというサバイブ思考、決断思考へと結実することは、しょうがない面はあれど、それでも敢えてと狡猾に対峙すべきだと思えた。なんで宮台先生がある種の転向としてリベラリズムから(矛盾しないとはおっしゃってるけど)コミュニタリアン回帰っぽくなっているかというのが実感出来たし、やっぱりキーワードは包摂だろうと思う。

同時にちょっとした問題意識をもった。批判的継承をするならば、宮台という存在はトリックスターとしての存在意義がある。それは必要な存在だが、じゃあ実際にコミットする存在にはどうかかわれるのか、となると、先生だけの責任じゃないけど、ケツもつ意識が必要になる。つまりは、宮台という存在でさえ、強度が及ばないのが、企業に生きる「普通の」人なんじゃないかと思っている。
(先生の書いた『就活原論』はファクトなので、企業に言及できないということではない。あくまで、どうしても第3者的にになってしまうということだ)

宮台教授の就活原論

宮台教授の就活原論

自分は実務ではバリバリ企業変革関連のことをやっていて、そこはやっぱり飛躍というか乖離は否めない面があると思っている。つまりは、そもそも論で気づけたり、問題把握の面ではコミットできても、どこまで実効性がともなうか、という面があるのだと思う。企業というのは確かに所詮はアソシエーションなのであるけれど、そこが全てであってはいけないし、そうでもないのだけど、食い扶持を稼いでその場で何時間も過ごす、という観点からすると、仕事はそこそこに地域共同体に戻ってはいそこでこそ包摂ですね、ということは一足飛びに言えない面がある。(これは、職場を共同性からの可能性と捉え直すという位置づけで中原淳(@nakaharajun)的立ち位置ではあろう。)

職場学習論―仕事の学びを科学する

職場学習論―仕事の学びを科学する

つまりは、問題意識としてはたかが企業、されど企業ということなんだと思う。社縁なんて言葉は死んで久しいし個人的にはお断りなんだけど、それでも敢えて企業体のアソシエーションというのはひとつ社会的包摂のヒントではないかと思う次第だ。実存的に仮託する場である以上。

社会運動とかじゃなくてもケツ持って戦ってる、「良き市民」として社畜とか言われながらも、身を賭している、そういう存在ってあながち社畜乙wwwとかいうカテゴライズも出来ない。だってそこにはジレンマを抱えながら戦っていくという強度があるから。

勝手にこの講義を通じて思ったのは、自分は学者でもなければ社会運動家ではないけれど、社畜だとしても、企業体としてのアソシエーションの可能性を考えることは、意義があるのかもしれないと思った。人間の知恵として生まれた共同性の発明として、企業体というのはかなりのアイデアであると思うし、そこに全ての実存を仮託するのはいけないが、だからといって資本主義オワタとか心地よくスパっと切り捨てる類のものでもないということだ。

だから、批判的継承として、宮台イズムを企業体の中で強度を持ちうるものとして転用出来ないか、というように思った。そういうかたちで継承したい。そう考えると、経営学というのはオーセンティックな学者筋からは(笑)的な側面はあれど、アソシエーションを真面目に突き詰める臨床的学問として見ていくべきものかもしれないと思う。だから、思わぬ帰結だけど、社会学から転じて経営(学)というものから包摂を考えるというのはひとつ挑戦ではないかとも思うに至った。

先日の講義では中間集団ってなんだろう、という話になったのだが、どうも中間集団としての企業体というのは、リア充に対する負い目からかもしれないが、オーセンティックな学問からはないものにされているように感ずる。確かに社会は制度に規定され、企業体とかいっても官僚の裁量でおおいにかき乱されるんでしょ?ということはあるんだろうけど、現実問題、企業体というアイデアに生活を依存している以上、もっとその可能性を社会学とか、そういう共同性を考える分野からも考察していくことがあっても良いのではと思う次第だ。

多分に自分の問題意識として重なっているので単なる俺の実存問題なのだけど、それでも誇大化した妄想野郎だった学生時代を終えて、就職して通過儀礼的に社会に組み込まれたことで、生きやすくなった面がある。実感がある。不全感を持っていた自分は、革命(おおげさ)を志向するとか思ってたのは、ある種の「弱さ」であり、強度を持ち得なかった。だから、学生時分で、社会化されたくねーとか、資本主義乙とか言ってるのは、「もったいない」という感覚であるんだ。頭でっかちでそれって強度得るの?という問題。(いつもさらしてごめんだけど、id:Yamakatsuなどは、いいモノ持ってるから、ぜひ社会化とか言わずに「敢えて」コミットしてくれればなんてオジさんはおもってる)
ナイーブな意識、ありていにいえば鼻クソ的弱さというか。見を晒されて、ダブルバインドのジレンマの中で得る、強度というものがある。先生風に言えば、「いいとこ取り出来ない社会」だからこそ、敢えて再帰的に企業体にコミットすることで得られるものがある。

ようは、中原淳的に言えば「自分はどうなのだ」とか「お前がいうな」的なことが実際に影響力を持つ時に根本に出てくる。再帰的に問われている。「いろいろいうけど、で、君何やってるん?」という。これはまさに自分にもつきつけられている。誰にでもつきつけられている。

クソ書き散らかしたけど、教条的に振る舞うとしたら学生さんは他者とかオトナに恐れることなく社会に動機づけられてください、ということは伝えたい。まあこういう熱はロスジェネがギリでソレ以下は社会に対して信用もなにもなくてコンサマトリーしてるんだろうという絶望はあれどね。ポストロスジェネだって誰もが皆、まったりコンサマトリーできているわけじゃないからこそ、そういう存在にはそう言いたい。

駄目だまとまりなくなった(+_+)
でも、言いたいのは、宮台講義良かった最高だったというのと、それを自分が継承する面があるとしたらどうだろう、鵜呑みの先にあるものは、ということで書きたくなったのだった。

オトナは楽しい。
エレファントラブも歌ってただろ?

大人は楽しい

大人は楽しい

(レイバーワークで疎外されているid:takumauと、最高かつ最低 - β2というステキエントリーを書いた俺がいま一番抱かれたい男No.1であるところのid:kkbt2に勝手に捧ぐエントリーとする)