日記を読み返してみる

たまに、トイレで◯〜しながらスマホいじって自分の日記見返したりする。とまらなくなることある。自分が書いた昔のものを見るのは面白い。手書きだとなんかセンチでいやだったけどネットだとあまりそう思わない。綺麗な字だからか。これは効用だな。
自分いいこと書いてんなと思える。ある種の他者として眺められていい感覚だ。最近、いろいろ葛藤することがある。仕事しかり、うちのことしかり。ワガママだと思う気持ちと、そういってる相手のほうがワガママなんじゃないかと利害調整的に感じることもある。原理的に、どちらが正しいとかあんまり関係なく、自分にとってその他者がどうであるのか、というのが俺にとってはどうやら大事みたいだ。入れ替え不可能な存在で、認知をしているかということ。それは大前提に立ち戻って確認したいことであるなと思えた。
一方で、感情の問題というのは難しい。ルサンチマンは降ってくる。これを、認めて受け入れるのは難しい。いつも立ち向かえるほど人間は強くない。とかも思った。
いつものように話を飛ばすと、最近の企業社会は社会関係資本がどうのとか、信頼がどうのという話が注目視、という話をうっすら聞いたりした。ふうむ、なんだか眉唾臭いと思う。組織開発、っていうことがトレンドならまだいい。イズムをつくる、ということだとして。信頼、というのをことさら言葉にする面映さってないだろうか。どの状態を信頼というかはわからないが、どの点で握り合うか、ということはある。信頼が全くないとはいわないが、一緒に働いている時点で過多はあれど信頼というのは発生せざるを得ないものでもありそうだし。
宮台センセの今日の講義でも話にでた、地域共同体の包摂ってことと関連して想起したのだが、企業社会以外に包摂的な地域性とか多元的な所属がないなかで、なにが信頼だと。そう思う自分がいる。ああ企業とか、やっぱり俺たち世代は(って世代にするけど)信頼する対象足り得ないのだろうな、と規定してしまいたい。あたたかい組織、冷たい組織とか職場、とかって言い古されてるし、そういうことすら考えたくないんだが、感情的慰撫ってもんが飯に塩ふる程度の心遣いで出来るんだから、それやっときゃいいんじゃねえのというシチュエーションが多くねえかとは思っている。自己開示して語らえばOKなのになにかっこつけてぶってんだっていうことを思うことがないでもない。
空気の話、ってのも講義で出たけど、なにを気にして配慮してんだという気持ちもあるにはある。けっきょくは、信頼してないから空気とかいってんじゃねえかという気持ちもある。
役だったのは、関西的な自己規定から始まるコミュニケーションってのがいいねということで、関西が恋しいと思う気持ちに納得がいったことがあった。しゃちょさんだろうが、在日だろうが、◯◯だろうが、そこで自己規定されたところから始まるコミュニケーション、人間は平等でない、から始まるむしろ楽さ、逆説的に多様性を尊重する社会を知ってからは東京つうかストレンジャーが生産に最適化されて存在する資本社会くそいとか思う時もあるのだった。疎外論かよ、今更という感じである。労働〜
日記見返しとか関係ないけど最近肥溜めしてなかったからたまには肥溜め日記としての本領をはっきしておかねばと思った次第である。改行もないのはそのせいである。