ひきこもりの種類

ひきこもりも種類があるように思った。例えば昨日書いた礼節もなく俺は俺ですから以上、というのがひきこもりに思えるというのはあるが、そうではなくて、そういう態度こそが究極に開かれているのかもしれないと思うのである。セカイ系とかも想起したが細かいことは頭がまわらないので書かない。
俺は俺、とはっきり開き直った上であなたはあなただよねというのは究極にリベラリストではないかということだ。共生侵害さえしなければ良い、という点においては原理的にそうであろう。こんなの90年代に宮台センセがブルセラの時に書いてた。
まあ感情的な侵害というところがいつも争いの焦点であるし俺もその点において、気持ちくめやとか思うのだが、交渉学においては利害にのみ焦点を当てて相手の感情を当てにしない、ということも言われた。なので、多元化する社会における生き方の作法なのかもしれない。とは分析できる。が。
やはり、老害としては礼節志向となってしまうのであった。機嫌よく生きたいので。
サービス精神が大事だと思うのである。人を笑わせるとか自分がぼけてすべるとかそういう大阪人のりということなのだろうか。コンテンツはない。そこにあるのはモードだけだ。だけどモード主義なのでモード大事である。
厳密にはそのモードというのは別に俺は俺、という思想と相反しないので、ここまで書いて、俺はリベラリストへの怒りではなくて、相手へのサービス精神というだけの点が気にくわないのであろうと思った次第だった。だって俺は俺的な感じで職場ではリベラリスト的なかんじで思われてきっと若いもんは〜的な目線受けてるもんね。もう10年以上だ。
論点が定まらないのは日記だからです。こういうのばっかり書いていると達意じゃないとか論理的じゃないとかいうことでまたdisられるのですが、このお作法はやめたくないの。だってそのいい加減さとか受けてのいらだちとか、感情の垂れ流しこそが豊穣なのだもの(・∀・)その豊穣さはきっと全く無価値なんだろうけど豊穣=価値でもないからいいじゃないの(・∀・)
しょせんはカタルシス日記である。ああ垂れ流しは気持ちいいヽ(´ー`)ノこんなことばっかり書いているとせっかくのαとの付き合いもサヨナラになってしまうのがこわいこわいまんじゅうこわい(・∀・)

もうダメだ。オチなしエンドレス(+_+)

エンドレスといえば。

楽しみ。