カタルシスがない

つまりはそういうことである。カタルシスがないのだ。カタルシスのない文体なのだ。行きつ戻りつ自意識の制御の聴かない修正主義の文章である。コルトレーン的というのはそういうことだったのか。しかしなぜ当時コルトレーン信者が多かったのだろうかとは思った。俺はハードリスナーではないのであまり聴いてないが、たしかにコルトレーンの在り方はそこまで惹かれるものではなかった。が、100枚もきかんとジャズは語るなというのが今日読んだ本の文章だったので倣って聞こうかとおもったのだった。俺はせいぜいが20枚程度である。ビル・エヴァンスにマイルス、キャノンボール・アダレイチャーリー・パーカー数枚、そんでコルトレーンアート・ブレイキー、こんなもんだったかな。なんかのガイドを見てざっと買って聴いたのみである。一時期は何度か繰り返し聞いていいねと思ったりしたのだが、俺はまだそこまでジャズに対して開かれてはいない。今そのモチベーションはそこまでないが、つうかスタイルから入る以外の動機づけが果たしてあるのかわからないほどに一見同時代的ではないので、せいぜい意識化に留めておくようにしよう。
とはいえ、聞く人にはカタルシスではないのだが、きっとコルトレーンは自分なりに毎回カタルシスへと導かれようとして行きつ戻りつしていたのだろう。書き手としてはその思いであるがな。