本質を見つめることにすると

しばらく書かなかったりぼーっと日常を過ごしていたが、やはり切実な問題などは生き方に反映されるものなのだろうとつくづく思う。それか趣味か。ロスジェネは割を食った世代とか言われてもあまりそういう意識はない。比較してる人、それ幻想のバブル世代と対立してんじゃないだろうかとは思うけど。というのがリアルな感覚。まあバブル期にほんとにバブルしてた人とは仲良くなれてないし上に来たときはまじ止めて欲しいとか思ったんでそういうのはあるか。
討論番組とかみてたりポリティカルなシチュエーションを迎えていつも俺が思うのは、もう痴呆者じゃねえかってくらい主張がないんだということだった。どの立場をとるか、ということが。
これは学びで解消出来るのかと思って新聞読んだり本読んだりテレビ観たりというメディア接触と実際に身近なポリティカルな人の話しぶりを聞くに、これが逆効果というか、無関心なのかねと思って逆に落ち込むのだった。関心を持ちたいというメタな態度はこの際無関心と同一だろう。
まあとはいえ、連帯してた人は全共闘世代だろうがそこまでいなかったんだという話もある。データ的にもその世代のおっさんと話してても。単なる歴史状況とか人口ボリュームのお話かもしれない。
ポリティカルにはなれないけどポリティカルで在りたいというきもちが邪魔をするのか、どういう風になればいいのかと思うことが最近多い。だとしたら社会科学なんてやる意味ないだろう。
と、そこで根っからのお祭り体質というか状況をつくりたいだけなんじゃないかと思っている次第だった。意図せず広告やになったが体質的にきっとそうだったんだろうと思う。なるべくしてなったのかも。出版やにはついぞなりたくてもなれなかった文学部ですし。
人の意識とか気持ちの動きとかにしか興味がない。だから社会から受ける心的作用というところに関心があるとやっと気づいてきて今は社会学というより社会心理学に傾いてきている。なんでおもに社会学のなかにカテゴライズされてんのかねというのはあるよね。サイコロジーなのに心理学科にあまりないという事情。まあ細かい差異は調べたし理由もわかるけどとりあえずはいいか。
純粋日記としては、もうこうなったら無理はせず自分の本質を見極めてそこにフォーカスしていくだけですね。プロモーターでありフィクサーでありマージナルでありプロデューサーでありエディターでありファシリテーターということで、日本語にすると自分では生み出さない人、ということは確定した。あとは、ケツはせめて持つ人間でありたいねということは残る。そこが84世代的な広告ワナビーとロスジェネ第2世代をわかつせめてもの礼節とかあえて思っている。