俺は文学部

俺ははっちゃくって番組があったと思う。おっさんとしての記憶が確かならば。今日は回顧から始めます懐古か。ごきげんよう
ピーター・バラカンをみた、というお話し。業務の一貫で見たわけだけどある種の高所からの客観視がかなり良い影響をもたらしそうだというお話し。なんのことやら、なんだけど、今日読み終えたたつる本にコミュニケーションは誤解への可能性によって開かれているとかそういうこと書かれていたのでわかりやすく書こうとは思わない。そういう達意の文章がどうのこうの、ってのはもう仕事とか仕事人生とかで死ぬほど飽きてる。そう、飽きてる。
つうわけで、別に無関連ではないことでもある。バラカン(もうこうよぶ)の単なる音楽オタクだよというお話しをずっと聴くという贅沢な機会であったわけなんだが、そのある種の無駄さ(ごめんなさいごめry)によって開眼、とまではいかないかもしれないが、アイデンティティ発見へと立ち戻ったというわけである。はい、最近アイデンティティという言葉に萌えますがエリクソンは別に読む気もありません。
相変わらずのクネクネ飛行でごめんなさいだが誰のための日記かというと俺のための日記なので気にしない。で、バラカン卿のオタク談義は、まあ還暦60歳のおじさん(おじいさんとは思えなかった)がこの曲いいよねーというのを語らいまくる会なのであるが(トートロジー化してきたな)だいたいが黒系のジャズ系推しで来たというわけだった。といっても、ソレ以外にもメジャーどころを出してきててビートルズからストーンズ、ボブディランにリトル・フィートトム・ペティとかそんなあたり。で、俺の記憶ががっと呼び起こされたってわけ。
なんのお役にもたたないとされている文学部英文学出身の俺は、別にあんまりシェークスピアも読まずせいぜいがマイ・フェア・レディ程度の英文学で他はだいたいカウンターカルチャー系のことを授業でやるだけの遅れてきた団塊世代だったもんで、ああこの世界観懐かしいし、俺の精神性の土台かもと思ってなごんだ、以上、というわけだった。
この文学部問題は、複雑な心持ちであって、誇り的なきもちもあれば劣等感満載でもある。「実学」ではないとか思われてるんで、俺がすごく尊敬して今でも一番に近い憧れでもあるいとうなおや御大に文学部ってなにやんのと侮蔑されたことがずっと尾を引く程度に劣等感だからだ。まあ今や、もっとメタ認識になったから、誰がなんと言おうとコードを書くのと物語性の中を夢想することはほぼ等価じゃなかろうか、とか、そういう数直線上の基準にすらないものかもしれないと思い始めたので治癒過程なのであるが。
で、得た気づきとしては、いまや別にその時代の音楽を懐古趣味で聴き直そうとか、立ち戻って保守的にとかいう次元じゃなくって、アナクロな課題かもしれないけど、文学って、社会科学じゃない人文というものってなんなのだろう、という少し立ち戻った問いに戻れた意味で価値だったというわけだった。
なんというか、思考が逆行したことで一歩進んだ感があったわけだ。新たな問いは新たな可能性に開かれている。というわけで、すこしスッキリして新たな視座で次の段階に抜けていければいいなと思った次第だった。ピーター(あ、呼び名変わった)のこと別にあまりメモせずに曲目リストに極私的な問いを書き連ねて、久しぶりに意義のある講義として受け止められた、ってわけだった。大感謝である。感謝ハイで会社から歩いて帰る程度にハッピーであった。
なにかを精緻にフレーミングしようとしすぎていたのかもしれない。わかりやすい、という病は少しうんざりしている。どっちかというと私的にかけた鎖のようなもので、そういった思考形式に染まっている俺おつカレーという感じでしかないのだけど。
テレビではハイテンションなKARAがかわいらしく踊っててかわいいですね、とは思う一方で、別に韓流の文脈に乗っ取らずとも、こういった代替可能すぐるなにかは今特だけど戯れツールとしての刹那でその先どこ行く感じもないのも虚しいと感じる。
また脱線。日記のよさ。
というわけで、合目的性のみを追求したような学問への?がともった。これは大いなる前進であると好意的に解釈したい。どうせMBAをとるわけでもなければキャリアプランとかいうものも、アーチェリーのまとのど真ん中的な照準を当てずにいいくらいに10年間で軌道修正してきたつもりだから、明後日の方向に投げたらなんかそれはそれで良かったという帰結になるような感じの学びが出来たらと思ってはいる。
もう誰にも伝える気すらない日記になってきた。
つうかKARAの右はじのやつ安田美沙子だろ。

BGM

BGM