割り切る、れ、ろ、ない

なんとなくやることもあるけどという時ほど書くのが日記である。
ハイブローなものは20代では9割わからなかったが30代になったら8割わからないくらいになった。ものの、スノッブな態度になるくらいならとりあえずはほっておこうと思った。いわゆるアートとかそういう類のものについて。
ということをFBに書こうとしてやめた。深い理由はない、がそれなりにちゃんと思ったことなので日記にしとくかという塩梅である。なんだっけ、えらいひとがなんかわいわいイベントいくよりは梅棹忠夫展見に行こうみたいな話で思ったんだった。それもひとけいゆでやってくるとかいう時代。あ、はっきりいってあまりソーシャルの情報源はもうほんとありません。本読む時間が生活の6割なのでネットは通勤とうんこタイムくらいでありますよ。
そりゃ、うめさお先生は凄い人だと思いますけど、じぶんにとってピンとこないのにああすごい人だ、という付和雷同で評価する限りその人の評価はじぶんにとって遠のくだけだろう。
本物の「キュレーション」とは?―東京都現代美術館・長谷川祐子(前編) - 日経トレンディネット
キュレーターなんとかの意見でいえば、エントリーポイントをつくるということなんだろうからこういう接点を否定するとまったく反する天邪鬼かもしれないが、同調圧力的に奨励するということはあまり豊かではないともおもうのである。
よく考えたらそんなに美術館とか好きじゃないんだった。でもこれは劣等感でもある。わからないからである。空間的な畏敬みたいなものはだく。個々の作品に対してはいつも疎外されている気がするものである。そんで、そこにキュレーターがコンテクストを持ち込んでくれるんだけど、それもなんて言うか、対話になるには結構こっちもリテラシーというものがいるよなと思う次第だ。そんで俺はあまりその才能がないのである。
美術館について想起タイムなう。美術館…どうも故郷の美術館はすごい人がつくったとかだったらしいが、1回しかいったことがない。高校時代のなんか甘酸っぱい思い出でもない程度だ。東京でも、観光地でも、海外とかでもいろいろ見たけど、なんだろうな、感覚が欠落してるのかもしれない。と、思うことがある。普通だとも思うけど。いわゆる退屈に対する暇つぶし、であって、ここで奇しくも『暇と退屈の倫理学』のテーゼがやはり出てくるのである。退屈の第2形式をきちんと需要、じゃなかった受容出来るようになれるのであろうか。俺は。
果たしてそれは訓練や習慣や経験や成熟で味わえるようになるものだろうか。
俺個人の問題はそれとして。
今のソーシャルなんとかという中ではそういう古臭さと表裏一体の伝統やら師匠の薫陶やらヒューマンタッチな系譜的世襲じみた美的感性の継承などなされるのだろうかと思うこともある。

適当になってきた。

ダイアリー風のきつきつ文章で書くくせがどうもなおらない。
改行がない、といってdisられた人のことを思い出した。批判を最近多くもらう。でも、俺はちょっとその人からの言葉については最近は耳が痛いというよりはなんというか、あまり善意のベースが感じられないのがさみしさでもあるのである。そこは釈然としていない。
れいによってみゃくらくもないようもべつにない。
久しぶりに文章書いたらそれなりにすっきりしたがもうおねむでつ。(+_+)