久しぶりのゆとり

いそがしいというか気ぜわしい日々をいったん終え、久しぶりのひきもる土曜日になった。深夜まで飲んで歩いて帰って昼まで寝て接骨院コンボである。たまにこういうのがあるといい。思考のほぐしというか、忙中閑によって思考は深化する。
最近思っているのは、あらためてぐるっと回って内発性のある学びという問題だ。動機と言い換えてもいい。そんでもって、動機の質というところにまた考えが及んだ。最近話題のなんか本は「生き残るための」という形容詞がついていてそれはまったくもって同意は出来ても共感はうまない形式的なものではないかとディスカスした次第。
生き残るための、という目的は衣食足りて、ということであるだろうが、いまは生き残るための、というだけなのかしらというのが貧しくわびしく思うのであった。生き残るため、ではなくて生きるため、というようにスコープを広げたいものだ。生きるため、あえて接頭語は入れていないが、森高ばりにmore betterということで読み替えていただければいい。めんどくさい。
なるほど、たしかに生き残るためというのは切実なる動機であろう。だがしかし、わびしさの気持ちも感じ入るところである。
こういうことなのかもと思った。
メルマガの予告編「格差社会について」 - 内田樹の研究室

元日のNHKテレビで「日本のジレンマ」という番組をやっていましたね。30−40代の若手知識人を集めた円卓会議のようなもので、格差の問題、そして、この質問にあったように「世代間対立」のことが論じられていました。最初は面白く見ていたのですが、途中でなんだかうんざりして消してしまいました。
その少し後に、平川克美くんとだいたい月一ペースでやっているラジオの対談番組の収録のときにその話題になりました。平川君もこの番組を見ていて、僕と同じように、途中でうんざりして消してしまったそうです。
何でうんざりしちゃったんだろうね、というところから話が始まりました。
「金の話しか、してないからじゃないかな」というのが二人の合意点でした。

「なんで、そんな話ばかりするの?」という「話題占有率」の異常な郄さが僕たちの違和感の所以でした。
というのは、どこまで記憶をたどっても、僕たちは若い頃に年金について熱く論じたことなんかなかったからです。
もちろん、年金は払っていました。年金けっこう高いねというようなことは給与明細みながら言ったことはあったでしょう。でも、その話で僕たちが熱く語りあったことは一度もなかった。
どうせお前たちはお気楽な身分だったからだろうという厭味を言う人がいるかも知れませんけれど、僕たちは大学卒業後に二十代後半で起業していたので、シビアな会社経営者だったのです。それでも、年金のことなんかほとんど話題にしなかった。

続きも面白いのでご一読。メルマガとろうかと思った。ワンクリックがめんどくさいからしないが。(これ、きっと一番大事な消費者心理)
と、いうわけで、合目的的すぐる考えは、じわじわと人生にハリをなくします@資生堂。というわけである。まともに教育されて想像力が多少ある程度の大学をさぼる生活をしていたロスジェネ以前なら、そういう感覚のほうが日常に対する不全感として湧いてくるのではなかろうか。そういう「健全な」意識感覚というのを我々は意図せず「忘却」しようとしている。それはなんとか生きるために、ということであろう。忘却という生きるためのモードをみにつけているというわけである。
と、いうわけで、最近はなんだか再帰的に学ぶという目的意識を考えざるを得なくなっているのであった。