TOEICなるものから派生して考える

数年ぶりにTOEICなるものを受けようかと思っている。だがしかし、どうやら受験エリアは区ごとに分けられるらしい。我が家そばに会場と思われる場所があるのに、この図式にのっとると、また変な場所に飛ばされるのではないかと二の足を踏んでいる始末である。遠隔地に行くほどあほらしいことはない。
さて、英語学習というのは純日本人にとって永遠と思われるテーマであることと思われる。英文学専攻ながらにまったく英語でのコミュニケーションを避けて解釈にのみ興じていた自分も立場はまったくかわらない。
はてなブックマークではエントリーの伸びが他のものよりも1.5~2倍以上の数値がつくことからして、現代における普遍的なニーズなのであろう。様々なクラスタの興味事項であることと思われる。
そんななか、帰国子女であるとする筆者の英語学習における原理原則のエントリーを発見したのでこれをご紹介したい。
英語を学ぶということ – The Long Wait
ぜひ全文のご一読を薦めたいが、いくつか引用してみよう。

英語が自分の中に根を張るためには、英語的思考法を身につけねばならず、そのためには多く読み、多く書くことが一番の近道なのではないか。アカデミック・イングリッシュを読み書きする能力をいったん身につけてしまえば、それは英語力の根っこになるだろうし、根がしっかり張った植物はそう簡単には枯れないものだ。

会話重視、英語は度胸です、ということを良く読む。ビジネスイングリッシュにおいては、これもバカに出来るものではなく、会話、コミュニケーションがとれるということは重要なのだろうと思う。外資系企業しかり。自分も商談の時にごくまれに、外国の人と対する時に、通訳なしに意思を伝えられたら、と思うことはこれまでに数度あった。
とはいえ、筆者は英語学習で心がけるべきはむしろ多く読み、書くことが大切だと主張する。となると、多くを読み、もうひとつは聴く、ということではあるが、基礎力を身につけるTOEICの勉強一つでも馬鹿に出来るものではない。のだろう。

畢竟、「英語的に考えること」が英語上達のための一番の近道なのだ。英語的思考と日本語的思考というものは大いに異なるから、簡単ではないし、日本語的思考を忘れてしまっては本末転倒だが、どちらもきちんとバランスよく習得すれば、脳にとってはとてもよい栄養になると思う。小手先だけの英語でよい点数を取ることをめざすのではなく、根をできるだけおおきく広げることを考えるべきだろう。茎や根がひ弱では、咲く花も力に欠ける。

どうも近年の英語を学ぼうという風潮の先に、国際対応という曖昧にして絶対的なものがそびえているように思えるのだが、日本に住み、ますます世界市民たらんとする現代の日本人である我々がいかにして振る舞うべきか、という時に英語的思考、対外文化の理解としての英語というのは必要なのだろう。
ただの海外かぶれにならぬよう、身近な日本の文化についてもデュアルで考える姿勢は忘れずにいたいものだ。日本人のアイデンティティ、というこれもあいまいなものであるけれど、たいていの人がこの島国に生まれ、旅行程度でしか海外体験をなしていないのであろうから、考えがふれて日本などとるに足りぬ、となったり、対極に日本こそが未来の世界のモデルケースなのであるという極右的な発想にならぬようにありたいものだ。
そう、中庸という考えもまた、海外のひとつ、「東洋」にはあるのだ。

中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもある。恒常的にいつも発揮することが、難しいことから、中庸は儒教倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる。
中庸 - Wikipedia

たまにはまじめな文章なども書かんとする。